ボランティアと言うべきではないでしょうが、小学生のころ、当時長野県北安曇郡小谷村真木部落というところに開設したての、「共働学舎」という様々な障害を持つ方が自給自足で暮らす村で、毎年夏休み中過ごしておりました。私のボランティアの原風景はこの真木部落にあるかと思います。小学生だからと言って容赦はなく、家畜の世話、畑仕事、食事の準備、風呂焚き、競争ではなくお互いにできることをして助け合って生きていくことを学んだように思います。
中高生のころは、岡山県邑久郡(今は瀬戸内市邑久町)虫明にあるハンセン氏病施設・国立療養所長島愛生園に毎夏ボランティア活動と称して、お世話になっておりました。本州から目と鼻の先にある長島ですが、根強い差別意識が残る中、当時はまだ橋さえかけてもらえない状況が続いていました。中高生の私ができることと言ったら、庭や遊歩道の掃除ぐらいで、目も指も使えなくなった方が舌を使って点字の聖書を読む中でミサに参加し、讃美歌を皆で歌ったりするなかで、逆に大きな元気をもらっておりました。
阪神淡路大震災は医学生で卒業試験直前でしたが、故郷の惨劇を聞いて、いてもたってもおられず、AMDAという国際緊急援助活動を得意とする団体の医療ボランティアチームとして長田区で活動していました。医師の資格を持たない立場でしたので、地元の利を生かして運転手として走り回りました。AMDAは一見さん団体が集まる国際緊急援助活動の経験が長く、長田区内のボランティア団体を取りまとめる役割をしており、善意のボランティアが集まるだけでは、効率的・効果的に「こうしたい」と思ったことが実現せず、マネージメント・コーディネートということが不可欠であり、その実際を知りました。
医師となってからは、通常の診療活動の間に長期休みをもらって、とくに豪州時代にはネパール国・ブトワール市で母子保健・医療の活動をしました。最新の設備に慣れた新生児科医の私が、設備の伴わないところではほとんど役に立たないことを改めて学び、それでも日常診療の中で本質を考え工夫を行うところの重要性と楽しみを感じながら、一方で幸せそうにしているスラムの子供たちと一緒にすごしながら、「自分にできることは何だろう」と考えていました。
英国時代では、ロンドン大学公衆衛生学熱帯医学大学院・院生だった際、途上国からの学生たちと勉強会をし、試験対策委員として活躍し、一方で国際協力という名で先進国のエゴや無知により途上国の発展が抑えられている構造を知り、卒業後は学外指導教官として、しっかりとデータと総意に根ざした戦略を持って国際協力活動を行っていくことの必要性を実感しました。
私は今、途上国のお母さんや子どもたちの健康についてのお仕事をさせていただいておりますが、国内でのボランティア活動とも重なる部分がずいぶんあるように思います。自分の都合やしたいことを相手に押し付けても、なにも役に立たないどころか、逆に迷惑をかけること、善意の活動とはいえ、組織としてのマネージメントがなければ、効果的に目的が達せられないこと、ボランティア活動も途上国での支援活動も成熟していくことが求められます。
テレビマンだった父が第一線を退いて老人ホームに入所中の方の足を洗う姿を見て、「相手がしてほしいことをすること」の難しさと大切さを感じながら、自分が活かされることを学び続けたいと思っています。
ボランティア活動の目的ってなんでしょうか。