2015年10月8日木曜日

医療費を減らすために


医療費が40兆円を超えたというニュースがあった。

医療の進歩によると説明されているが、国の税収は54兆円であることを考えると、自治体の税収を考慮しても、このまま増え続けては困ったことになる。先進諸国がその経済規模に比較して医療費に用いている予算はどこも似たような状況にあり、全世界的な課題である。

高齢化ということがよく合わせて問題になる。近年の保健および医療政策を見ていると、高齢化が進むために、高齢者の医療やケアを充実しようという単純化された政策対処が多いような気がする。「高齢」という病気はない。高齢化といっても、身体機能や精神的な機能の高齢化はずいぶん人によって異なる。

手元に1899年の日本の死因統計があるが、様相は現代と大きく異なる。感染症の問題が大きく、子どもや若年層、妊産婦の死亡が問題であり、現代のように生活習慣病やがんといった疾病でなくなっていくのとは大きく異なる。この時代からの「動的」な視点が必要である。

近年、子どもの発達にずいぶんと時間がかかるようになっている。人が経済的に自立することを社会的な発達の到達点とすると、50年、100年前に比べると、ずいぶん時間がかかるようになっているし、実際に心理学的発達にも時間がかかっているような気がする。

少々端折るが、こういった歴史的視野をおいて、現代の視点に戻り、表題の医療費の削減について考えてみたい。医療費の削減の方法には以下の二つの方向性があるように思える。ただ、「税収のうちどれだけを医療費に使うか」というのは「意思決定」の問題であって、価値観の課題であり、趣旨が異なる話なので別の機会に説明を試みたい。

1)医療費の効率化(同じ結果を生み出すためにかかるコストを減らす)
2)医療費の質向上(同じコストでより大きな効果を得る)

1)の視点に立つとき、まずは、効果を上げていない診療や政策をやめるあるいは減らす、というのが出発点である。無駄を減らすためにはどうすればよいのか。

難しいのは、「効果を上げていない診療や政策」は少なく、多くの場合、新しい医療技術はコストが大きくかかるが、効果も少し良くなるということが多く、生命予後や生活の質が向上する新しい技術の導入に、コストの話はどうしても後ろ向きの話になってしまい、ついつい新しい医療技術がどんどん上乗せされてしまい、しまいには効果が逆に下がっていても、どれが悪いのかもわからずいまさらやめれないということになっている。

私の専門の一つに「医療技術評価」というのがあり、医療技術の費用に対する効果を推測して示す、というものがある。

ある医療行為に関して、その効果を調べた研究を網羅的に収集し、その結果をまとめる。そのまとめを土台にして、日本の医療現場におけるコストと効果(通常は生活の質)を対比するための推測モデルと作成して示す、というのが一般的な手法になる。

私が英国滞在時代に勤務していたNICEという組織は、国としてこういう医療技術の評価を行ったり、より包括的な診療ガイドラインを作成する組織である。こういった組織は各刻で作られているが、日本には存在しない。

効果を上げていない診療や政策をやめるためには、その「効果」をある程度まで分野横断的に定量化して比較できる形にしなければ、不平等な結果になるし、意思決定は難しい。ただし、この「医療技術評価」という方法にも大きな限界がいくつかある。学術的な話になってしまうので、ここでは詳述しないが、英語がわかる方は以下の二つの論文を比較していただきたい。


両者とも日本におけるHPVワクチンの費用対効果について検証した研究である。新しいデータを用いたわけでは無く、これらの分析は以前された研究から情報を収集して行われた推測値である。前者は費用対効果に関してはずいぶん前がかりだが、後者はいくつかの条件がそろう必要があることが示されている。

同じ条件で一つの診療行為について同じ国を想定して費用対効果分析を行っても、検証する研究チームによって結果や解釈が異なってしまう。ちなみに前者はHPVワクチンを製造している会社の社員と著名な医療経済学者の先生が共同で行った研究で、後者は私も含めた独立した研究者のチームで行った。

検証そのものが複雑である一方で、このようにやり方によって結果や解釈が異なってしまうのであれば、検証方法についても検証しつつ、バランスの取れた意思決定を行うことが重要で、単純に分析結果に意思決定は任せてはおけないということがわかる。こう言った理由もあり、医療や健康政策は専門性が強いため、ある程度専門知識がなければ、意思決定が難しい。

こう考えると、「事業仕分け」のやり方の課題が見えてくる。事業を仕分けて無駄を減らすためには、ある程度の時間と上記のような研究手法を用いた検証のうえで、透明性の高い、専門性の高い会議体で意思決定をしていく必要があることがわかる。こういった仕組みの作りこみは、客観性や効果を発揮するためになかなか工夫を必要とする。

一方で、マクロの視点で2)を考えてみたい。ターゲットとしては生活習慣病を考えてみたい。

生活習慣に関連した病態は、現在の日本の政策方針は、「健診で早めに見つけて早めの治療」である。本当にこういう方針は費用対効果が高いといえるのだろうか。「健診」で異常値が見つかるころには、生活習慣の大半は決定づけられている。こう考えると、「生活習慣」がどのように確立されていくかを考える必要がある。二つのアプローチが必要であることがわかる。

A)   集団的アプローチ
B)   個人的アプローチ

生活習慣を集団として考えると、「健康的な食事」「適度な運動」「適度な睡眠」が得られやすい環境を社会としてどのように設計していくかということが重要である。

一般道路における自転車運転を問題視する論調が高いが、自転車通勤が増えている理由は、おそらく、「健康的な生活習慣」を希求する個人が増えている、という視点が重要である。ある組織では自転車通勤の通勤手当を、自家用車の通勤の2倍支給するようにしたところ、組織の構成員の健康度が増したという報告もある。

不健康な生活習慣を「懲らしめる」というアプローチではなく、健康的な生活習慣もって生活すると生活しやすい、という社会構造を設計する視点が重要である。

これが集団的なアプローチとなる。一方で個人的アプローチを考えると、生活習慣は妊娠出産子育ての時期が重要であることがわかる。生活習慣は、その親の生活習慣によって影響を受けるが、家庭が新しく確立していく妊娠出産子育て時期こそが、生活習慣病予防の本幹であり介入可能な黄金期であることがわかる。

実は、Developmental Origin of Health and Diseasesという概念がある。日本語にはまだなっていないが、かつては「胎児期起源仮説」とも呼ばれていた。胎児期や早期乳幼児期の栄養をはじめとする環境が、その子どもが成人になった際の生活習慣病発症に大きく栄養するという概念である。

第二次世界大戦末期の1944年のドイツ占領下で、食糧不足に拠る一時的な飢餓状態となり、この時期に妊娠した女性から生まれた子どもたちは、その前後に生まれた子どもたちよりも生活習慣病リスクが高った。最近ではさまざまな方法で研究が行われ、この概念が学術的に検証されている。

妊娠出産子育ての時期に、よい形で生活習慣を作っていくには、現行の制度でいくつかの壁がある。現行の妊産婦や小児の医療では、健常な人々への制度と、疾病を持つ人々の制度の間に大きな壁があり、前者は主に都道府県や市町村から提供され、後者は診療報酬によって提供されている。

この間にある壁が取り払われない限り健康な市民が育っていかない。

乳幼児健診をしている間に、皮膚炎などがあり、保湿剤で予防的にアレルギーの対処をしようにも、前者(乳幼児健診)は市町村事業あるいは自費診療、後者は診療報酬に拠る診療となるため、「混合診療」に抵触するため、保湿剤は処方できない。妊婦健診や出産も同じである。

後期高齢者医療費制度、あるいはその前身の老人保健法による制度のように、子どもの医療保険制度は切り出し、市町村や都道府県による制度、保健関連事業(ワクチンや健診)は、「妊産婦小児保健および医療費制度」といった形で一元的な財政制度としていく必要がある。


あまり長くなってもいかがかと思うので、このあたりの話は別のところで。

2015年10月1日木曜日

医薬品にかかわる意思決定

適切な意思決定をするためには、充分な情報を得ていることが前提になる。意思決定がうまくいかないとき、多くは、この「充分な」情報が得られていないことが多い。また、意図的にでも、無意識にでも、情報の提供の仕方を変えることで、この情報提供のバランスは容易に崩れていく。

医学界の、とくに医薬品に関する意思決定の構造的な問題点を問う著名な英語の本が、本年二冊翻訳されて、出版された。抗うつ薬と自殺の関係を言い出した精神科医が書いた「デイヴィッド・ヒーリー ファルマゲドン 背信の医薬 みすず書房」
と、私の仕事の一端であるコクランとも関連が深い医師で研究者が書いた「ベン・ゴールドエイカー 悪の製薬 製薬業界と新薬開発がわたしたちにしていること 青土社」
である。どちらも煽るようなタイトルになっているのはいかがかと思うが、医学界ではうすうす感じてきな大きな問題について提起している。

医薬品の問題点を指摘する論点においては、一般的には製薬企業がその攻撃の対象とされる。ただし、製薬企業は利益を追求する営利企業であり、不正をしない限りは、すなわち社会のルールに従う限り、それらの企業が糾弾されるべきものではなく、もし構造的な問題点があるとすると、それは、その問題点を生み出す社会構造や規制(あるいは規制がないこと)を問題にするべきだと思う。そういう意味では、この両者ともに、典型的で近視眼的な糾弾本ではなく、社会構造を明らかにして、その解決の糸口を探ろうとしているところに好感が持てる。

「ファルマゲドン」について、少し説明を試みる。マーケティングという手法が、医薬品の意思決定に関して現実的に大きな影響を及ぼす医師に絞って、発展してきたことを指摘している。さらに、医薬品を特許申請することに多くの先進国が抵抗を感じていた時代を過ぎて、医薬品産業が大きく先進国の経済成長に影響するようになり、ほんの少ししか違わない化合物を特許として認めるまでになることも示している。科学的根拠に基づく医療の枠組みの中で数値によるまやかし、ひいては日本でも問題になった臨床試験のデータの改竄も多くの国であった。また、効果の測定方法を工夫することで、結果の見え方も大きく異なる可能性も示している。臨床試験の結果を公表するときに、製薬企業がゴーストライターとして論文を書き、かかわった医師たちの名前で出版するというようなことも多くある。

「悪の製薬」では、意図的に臨床試験が行われたことや、陰性の結果だったものを表に出さないことで、結果的に情報をゆがめること、規制当局への圧力、臨床試験の分析方法や施工方法を様々に工夫することで、その医薬品の効果を大きく見せることが可能であり、そういった事例を紹介している。さらに、あの手この手のマーケティングの方法も同様に紹介している。ゴーストライターのことにも触れられている。

こう見てみると、両者の観察はかなり似ている。

ある研究の結果、陰性のデータは出版せずにお蔵入りになり、陽性のデータのみ出版するというのは、なにも臨床試験だけではなく、基礎的な研究でもよく見られることである。「出版しないこと」自身は不正ではない。ただ、良い結果のみ著名な雑誌に収載され、人々の目に留まるため、あたかも、新しい診療方法のほとんどがバラ色のように見えてしまう。

私はコクランという組織の日本支部を担当している。また、英国時代はNICEという組織の診療ガイドラインを作成していた。このコクランやNICEという組織のことが、この二つの本でともに紹介されている。

コクランでもNICEでも、関連する診療行為の効果について検証した臨床試験を網羅的に集めてきて、その質評価をして、統計学的にその結果をまとめる、ということで、その診療行為に関する科学的知見を凝縮させて意思決定に寄与しようとする文書を作成している。こういったプロセスのなかでできるだけ客観性を担保した方法で医療に関する情報提供をしようとしている。このプロセスの中で、注意深くみていくと自然に上記の「構造上の問題」が見えてくることがある。

繰り返すが、製薬企業を糾弾しても解決にはならない。これは医師や医療界、規制当局、医薬品医療機器企業、学術界全体にわたる構造上の問題である。さらに、おそらく、似たような構造が多くの分野においてみられると考えられる。


適切で有効な規制強化(あるいは緩和)、透明性の強化、市民や患者がより主体的にこのプロセスに参加することなど、ある程度は対処の方法はあるが、前回でも書いたが、最終的には、他人の意思決定に影響をおぼそうとする手段はかなり多岐にわたることを考えると、個人個人が、近視眼的な情報に惑わされないように本質を見ていく目を養うことも重要である。