2008年10月3日金曜日

診療ガバナンス


最近、ガバナンスという言葉が流行している。国際社会で汚職にまみれて機能していない政府を「ガバナンスが足りない」と言うようになったし、一般企業にお勤めなら「コーポレート・ガバナンス」という言葉を聞いたことがあると思う。英国の医療分野でも、「診療ガバナンス」という言葉が頻繁に聞かれる。昨今の英国保健制度改革のキーワードの一つでもある。

この診療ガバナンス、英国政府保健省の定義を意訳すると、「最適な医療を生み出すような環境を作り出すことで、継続的に医療における質を改善し、高い水準を保つようにするシステム」といったところだろうか。英国においては、この医療の質と安全に関連して、診療ガバナンスという概念がかなり末端まで浸透してきたと実感している。

例えば、英国では研修医であろうと、上級医師であろうと、職場を変わるときは面接がある。面接はする側も受ける側も人事担当者に監視されるので、真剣勝負である。その面接で、最近必ずと言ってもいいぐらい聞かれるのが「診療ガバナンスについてはどう思うか。今までこのためにどのようなことを努力してきたか」というようなことである。実は私も就職のときに聞かれた。「診療ガバナンス」は、英国で医師として働くからには絶対に避けて通れない言葉なのである。

では具体的にどんなことを指して、診療ガバナンスというのだろうか。例えば、これはとあるロンドン郊外の病院での実際の話である。運営側(英国の場合、病院の運営母体はトラストと言う)の方針で、小児部門に「診療ガバナンスの担当者」を設置することになり、上級小児科医師と上級看護師からなるチームが指名された。診療ガバナンスを実現するための四つの柱、つまり(1)リスク・マネージメント、(2)診療監査、(3)教育、(4)診療ガイドライン——について検討が重ねられた。

チームはまず、病院運営の利害関係者たちと話をすることにした(利害関係者分析という)。病院の理事長、院長、婦長、人事担当者、診療部長といった面々と個別に会い、関係者たちの考え方を調査し協力を求めた(実はこの話し合いは時間がかかっただけで、あんまり実にならなかったようである…)。

その次にしたことは、職員達との話し合いである(職員ワークショップ)。いろいろな職種・部門の職員達と計8回ほど、それぞれ2時間にわたる話し合いを持った。その後、各部門の上級職員たちと1対1の面接もした。こういう職員との対話の中で、診療に直接かかわることと、職員間の問題点が浮かび上がってきた。

診療に直接かかわることでは、診療ガイドラインや最新の科学的根拠などと照らし合わせて、日常の診断や治療に関して幾つかの問題が浮かび上がった。例えば、母乳率を改善する工夫をする余地があるとか、不要で行き過ぎた治療が行われている可能性がある、といったようなことである。また、職場の人間関係においても重要な発見があった。小児病棟の一部の看護職員が平等に扱われていないと感じていたり、職員間のコミュニケーションがうまくいっていなかったり…というようなことである。

一方で、6カ月間にわたり、小児病棟・新生児病棟に入院している児の親を対象に質問票を使った調査も実施した。この調査の中で、別の問題点も浮かび上がってきた。例えば、新生児病棟内で誰が上級看護婦か分かりづらいとか、救急外来から小児病棟に上がるまで繰り返し同じことを聞かれるとか、救急外来での待合室に関する不満などが指摘されたのである。

以上のことを踏まえて次の6つのプロジェクトが立ち上がった。
新生児病棟
1) 不必要な新生児病棟への入院を減らし、こういった児の産科病棟でのケアを促進すること
2) CPAP(持続性陽圧呼吸療法)を受けている児に関して、不要な治療がないか検討し、早期退院を促進すること
3) 低出生体重児を対象にカンガルーケアを導入することで、母乳哺育を促進すること
小児病棟
1) 3つある小児病棟間で、適性を考えた看護職員の配置を再度検討すること
2) 救急外来より小児病棟入院までの繰り返しの仕事を無くし、迅速な入院を促進すること
3) 開業医より紹介されてきた、「入院扱い」として救急外来で診られている児の取り扱いに関して、再度検討すること
これらのプロジェクトが導入されていくにつれ、病院内に好意的な雰囲気が見られるようになった。母乳率の大幅な向上など実際の診療内容もさることながら、異職種間のチームワークや、コミュニケーション、職員のモラルの向上にも役に立ったようである。その後、これらのプロジェクトをきっかけに臨床研究が始まったり、学会発表や論文の執筆なども盛んになったりしたようである。

この中で重要な点が幾つかある。問題点を見つけていく手法が(1)利害関係者分析、(2)職員ワークショップ、(3)1対1面接、(4)質問票など系統的に考えられていることもその一例である。また、こういうプロジェクトなどが導入された場合、数字や臨床疫学研究の手法を用いた「プロジェクト評価」が必ず求められるのも、診療ガバナンスの重要な側面である。この評価で使った研究を科学的根拠として学会発表や論文という形で周りに伝えることが勧められているのである。さらに、医師の視点、看護師の視点、患者(の親)の視点、また診療内容、人間関係、作業手順など、さまざまな職種、さまざまな医療の内容が検討されている点は注目に値する。

なんだ、こんなことウチでもやっている、と言われる方がいるかもしれない。しかしその一つ一つを系統的にしているだろうか。疫学などの技術を使ってしっかりとした評価をしているだろうか。職種間の壁は高くないだろうか。上級医師から研修医までこういった概念がしっかりと根付いているだろうか。

診療ガバナンスという言葉は病院経営者や、公衆衛生学者たちだけの言葉でなく、英国では日常診療に携わる、医師や看護師など一人ひとりに関係があることとして浸透しつつある。一方で、現場の診療に携わる人のために標準的な診療もしくは最適な医療というものを提示する、科学的根拠に基づく診療ガイドラインの存在も、診療ガバナンスに大きくかかわっている。また、昨今の英国では、どのような場面でも決定に患者・消費者の参加が見られるのも、診療ガバナンスの特徴である。
(既出・日経メディカルオンライン・禁無断転載)

0 件のコメント: