2008年1月16日水曜日

患者・一般参画

患者・一般参画 (PPI: Patient and Public Involvement)

地下鉄では乗客がみな新聞を読んでいる、というのがロンドンの毎朝の風景である。騒音があまりにうるさくて新聞を読むぐらいしか出来ない、ということもあるが、政治に関心の強い国民性ということもある・・・というのはこじつけだろうか。英国で仕事をしていると何気ないときに「政治に関心の強い国民性」を感じるときも多い。こういう政治への関心の高さというのが実は患者・消費者の積極的な政策決定への参加に影響しているのではないだろうかと筆者は考えている。

患者・一般参画という言葉はブレア政権の目玉、英国保健制度改革でのキーワードのひとつである。2001年に発効された医療・社会ケア法(the Health and Social Care Act)にて、すべての英国国立保健サービス(NHS: National Health Service)の病院運営母体(トラスト)は、その方針決定に患者・一般代表の参画が義務付けられた。ブレア政権も長期化し、この患者・一般参画ということも末端まで浸透してしてきた。今ではどこに行っても、病院運営における方針決定場面に患者消費者代表の存在がごく当たり前のように感じるようになってきた。

私は今、NICE(National Institute of Health and Clinical Excellence)という国立保健サービス内の組織の下で、母子保健分野の診療ガイドライン作りに携わっている。NICEの診療ガイドラインはなかなか斬新な方法で作っていると、世界の注目を集めている。その特徴の一つがこの患者・消費者参加で、上に挙げた患者・一般参画という動きの一つである。

「患者・消費者参加といっても形だけで、これは患者・消費者の方と一緒に作ったのだと宣伝する為に参加するだけで、実際の発言力はない、ということはないですか」という質問を受けたことがある。こういう質問の背景にある、患者・消費者の味方の「ふり」をする政治的な輩がどこの国にも少なからずいるものである。私がNICEの診療ガイドラインの作成過程で感じてきた患者・消費者参加は本物であると感じている。一方で、平等の権利、発言力でもって診療ガイドライン作りに患者・消費者の方に参加してもらう、というのは表面的に聞こえる以上に周到な準備と長い歴史が必要である。

周到な準備とはその患者・消費者代表の選び方と研修である。
NICEでは診療ガイドラインの内容が決まると同時に、それに参加する患者・消費者代表の方の公募が始まる。患者団体を通して応募する人も多いが、個人として応募する人も多い。「患者」としてその分野の診療にどのように携わってきたか、どのような経験があるか、どのような考えにあるか、決まった形式の応募用紙に、ワープロできっちりまとめてくる人から、手書きでびっしり書いてくる人までいろいろである。原則的には英国内に在住しておれば、応募する権利がある。
次は選考である。詳細な選考基準をつくるというのはなかなか難しい。実際には書いた文章からその人の背景が見えてくるし、そのガイドラインを作成するにあたって必要なのはどういう人かという像がはっきりしておれば、選考する側の意見が分かれて困るという経験は通常ない。選考時に電話面接を行うこともある。応募用紙や電話面接の内容から得た像から大きく外れた人物が当日現れる、ということはまれである。
選考が済んだら、次は研修である。医療というだけで特殊な言葉を使うことが多くなるが、科学的根拠に基づくガイドラインということもあって、会議中も書類中にも医療疫学の特殊な言葉も数多く使われる。こういった内容の理解を助けるための研修である。

こういった選考や研修も、患者・消費者代表の方を含めた会議の成功の重要な要素であるが、もう一つとても重要な要素がある。それが議長術である。実はこの議長術、単なる技術ではなく、それなりに長い歴史が必要である。
こういう診療ガイドライン作りが始まる前に、患者・消費者側だけでなく、議長にも研修を受けてもらう。過去に参加した患者・消費者代表が、何を困難と感じたか、どういうことをありがたいと感じたか、を伝える。また、あまり難しい術語が多くなると、易しい言葉に変えるように注意をする。また、会議では状況に応じて一方的に話をする人を止めることも必要だし、発言の少ない人を促すことも時には必要である。会議の成功はこの議長術にかかっているといっても過言ではない。実際にこういったことにきっちりとした配慮のできる議長の進める会議に参加すると、自然に会議が流れ、患者・消費者代表も「普通」に参加しているように感じる。
なんだそんなこと分かっているし、普段からしている、という人もいるかもしれない。しかし、そういう人は英国でこのような会議に参加する機会があれば、ぜひ見学して欲しい。議長の一つ一つの細やかな配慮が、これしかないというタイミングで入り、会議が流れていく様子はまさに芸術のようである。私もこのような研修を受けたこともあるが、たとえば声のトーンを少し変えること、誰に視線を合わせるか、といったような技術的なことから、意見を聞き入れること、会議の流れを読むこと、時には威厳を持って会議を止めること、そして議長が一方的な意見を持たない、というような本質的なことまで、多岐にわたる。根底にあるのは違う背景を持った相手に敬意を払い、理解しようとするという当たり前のことに他ならない。個人個人がすべてしっかりとした意見を持ちながら、社会全体としても機能させるという英国流個人主義の歴史と無縁ではないと感じる。あまり英国を持ち上げたくはないが、やはり学ぶべきことも多いのも事実である。

あらためてNICEの診療ガイドライン作りを見るとと、やはり「患者・消費者側の視点」が診療ガイドラインの中に反映されていると確信する。とくにQOLや痛みに関すること、治療の選択など、個々の推奨のなかにこういった視点が静かな形で生かされていると思う。こういったバランスの取れた診療ガイドラインほど、現場が使いやすい、あるいは使いたくなるのは物の道理である。

重要な決定事項はそのサービスを受ける側も含めて話し合いをして決める、というのは考えればごく当たり前のことである。日本でも患者・消費者代表が参加して診療ガイドラインが作成されたと聞く。お隣のフランスでも同じように、患者・消費者代表が参加する診療ガイドライン作りが始まった。これからもこのような動きはますます拡大していくのではないだろうか。

(既出・日経メディカルオンライン・禁無断転載)

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