2008年10月7日火曜日

ナイス!なガイドライン

英語で「良い」という場合には様々な言葉を使い分けるgoodやnice、excellent、brilliant、fine、などなどいろいろあるが、すべて微妙に違う。Niceという言葉は、普通に良いときにも使うのだが、人を指して、「優しい」だとか、「親切」、「人当たりがいい」というような意味で使う場合も多い。ちなみにExcellentというのは単に良い、悪いではなく、非常に優れているという場合に使う。

NICE(National Institute of Health and Clinical Excellence)http://www.nice.org.uk/ は、ブレア政権の保健医療改革の目玉として設置された、国民医療サービス(NHS)内にある独立組織である。主な仕事は、ある一定の病気や症状に関連した診療指針を作成する「診療ガイドライン・プログラム」、一つの医療技術に関してその医療効果や経済効果をまとめる「診療技術評価プログラム」、それから上記二つとはアプローチが多少異なるため、手術や手技に関する効果などをまとめる「介入的手技プログラム」を三つの柱としている。最も大きな仕事は、いわずと知れた診療ガイドライン・プログラムである。2005年より、一般の診療行為に限らず、公衆衛生的な施策、たとえば国民の健康に関連した食生活はどうかなどに関しても、ガイドラインを作成するようになった。

なぜ診療ガイドライン作りが保健医療制度改革の目玉になり得るのだろうか。

誤解を恐れずに単純に書く。NHSはすべて税金で賄われ、診療を受けるのはすべて無料という極めて社会主義的な制度として始まった。その後、時間とともに組織疲弊を起こし、非効率化、質の低下が問題となっていった。サッチャー政権時の自由主義化改革により、一部の地域の効率は上がったものの、質の向上にはつながらず、地域格差を生む結果となった。以上の歴史から、現政権にとって、医療の効率を上げつつ、質も向上させ、全体の標準化を図ることというのが当然の目標となったわけである。

もちろん、医療というのは各病気や状態に対する診療の集合体としてあるわけだから、それぞれの病気・病態に応じた最も良い診療行為というのはあるはずである。その現在考えられる最も良い診療行為、というものを考えてみようというのが診療ガイドラインである。

具体的には、まず今まで膨大になされてきた臨床研究をまとめ、研究の成果ではどこまで分かっているかということを検討する。また、これと同時に、その診療行為の国全体としての経済的なインパクトや、経済効率(どれだけのお金がかかる診療行為で、どれだけの効果が上がるか)に関して、しっかりとした経済分析も行われるのもNICEの診療ガイドラインの特徴である。多くの診療行為は、実は臨床研究に基づいているわけでなく、長い医学の経験の歴史の中から見つけられてきたことも多いので、臨床研究をまとめるだけでは不十分である。また、すべてのことが経済効率だけで筋が通るわけがなく、これだけではいけないのは当然だ。

そこで、実際に診療行為をしている様々な分野の医師や看護師、心理学者、一般の患者などに集まってもらい、臨床研究のまとめと経済分析の結果を検討してもらった上で、自分達の専門家としての知識・経験に照らし合わせて議論をしてもらい、これが今考えられる最適の診療行為であろうというものを考え作ってもらう。ここに一般患者が「患者という視点で見る専門家」として参加しているのはNICEの大きな特徴である。

作ってもらったものを今度は、インターネットで公開し、各学会から患者団体に至るまで、関心ある人すべての意見を募集する。その意見一つひとつをしっかりと検討した上で、必要に応じていったん作った最適な診療行為を書き直したりして、最終的にこれが最適な診療行為ではないだろうかというのものを作成し、再度インターネットに公開する。

しかし、同じ病名がついていても、患者さん個人個人の状態というのは必ず違うものである。なので、診療ガイドラインというのはあくまでも参考にすべきものであって、順守するものではない。これは絶対の原則である。

では国として、これだけお金をかけて、誰も守らないのでは意味が無いのでは?という質問を良く受ける。

実は拘束力はないにも関わらす、NICEの診療ガイドラインは大きな影響を及ぼし、一つのガイドラインが出るたびに各新聞がトップで取り上げ、国中の専門家がその動向を注目している。写真は私の担当しているガイドラインに関して、新聞社に情報を漏らされ、挙句の果てに見当違いの方向で書かれてしまった例である。いつも正しい情報が行くとは限らないが、スパイじみた取材をするほど内容に関心が高いのも事実である。こういうように国民レベルで関心を呼び、内容が大きく影響され、実際の診療を変えることになるというのも事実である。

これには幾つか理由がある。

まず第一に、「国」の作った診療ガイドラインであり、診療ガイドラインの内容そのものは法律でもなければ、拘束力もないが、当然ながら、保健省としても出来上がったものにお墨付きを与えるわけで、国の予算は診療ガイドラインの進める方向に沿うわけである。

第二に、各トラスト(病院運営母体)は第三者機関から評価を受け、その結果は公開されるし、政府の方針へもかかわってくる。この評価項目そのものに診療ガイドラインは入らなくても、診療ガバナンスへの努力は当然ながら評価される。診療ガイドラインは診療ガバナンスの重要な柱の一つなので、当然、診療ガイドラインを押さえていることは間接的に評価につながるわけである。

第三に、一般・患者さんの側の関与である。患者さん側の関与により、患者団体を通して、関心が高まるということもあるが、さらに重要なのは、一般の患者が、NICE診療ガイドラインの存在を知っており、自分や知り合いが何らかの診断を受けたり、症状を持つ場合、そのガイドラインから情報を手に入れていることも多いという点である。そのためNICEの診療ガイドラインでは必ず、分かりやすい言葉で書かれた一般用のガイドラインがすべてのガイドラインそれぞれに付属して存在している。日常診療の中で、家庭医側、患者側双方が、一般的、あるいは標準的な診療がどんなものかということをNICEの診療ガイドラインから情報を得ているわけである。

第四に、経済分析が必ず含まれていることである。治療効果がはっきりとあると研究の結果から分かっているものであっても、たいへん高額であるにもかかわらず、その治療効果そのものは他のものに比べると少ないという治療法がある場合、本当にそれだけの高い設備投資なりをする価値があるのか、という点は病院経営者にとっても切実な問題である。そのとき、「儲かるから」ではなく、「得られる治療効果が設備投資に比してどうか」という点が重要である。社会主義的運営母体を持つ英国の保健制度だからこそ、「儲かるから」ではなく「最大多数の人に最大幸福(健康)が得られるから」という考えに基づいて、進めていけるわけである。

第五に、方法論の内容に対しての信用である。できるだけ客観的な臨床研究の結果を検討した上で、どこかの学会だけの独占でなく、様々な科の医師、さまざまな場所で働く看護師、医療に関与するその他の専門家達、一般の患者代表、そのすべての人に発言権が与えられ、一般公開の際には極言すれば英国国民であれば、だれでも意見することができる。こういった透明性、客観性をできるだけ確保し、民主的な方法で出てきた結論をみんなで守ろうとするのは民主主義の基本理念である。それを支えるのは、ガイドラインの作成過程に対する信用であると思う(私自身も関与しているので、少々手前味噌であるが…)。

まだまだあるが、英国でのNICEの診療ガイドラインのあり方というのは、一般的な診療ガイドラインのあり方とは少し異なり、国の政策に非常に近い位置を占めているということが、その性格、影響力を決めているわけである。

中でも注目に値するのは、一般社会との知識の共有により、よりよいものを探していくという態度と、最大多数の最大幸福という全体の利益のためにする義務とともに個人としての自由と権利がある、という本物の個人主義の在り方が根底にあることである。

(既出・日経メディカルオンライン・禁無断転載)

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