2015年10月8日木曜日

医療費を減らすために


医療費が40兆円を超えたというニュースがあった。

医療の進歩によると説明されているが、国の税収は54兆円であることを考えると、自治体の税収を考慮しても、このまま増え続けては困ったことになる。先進諸国がその経済規模に比較して医療費に用いている予算はどこも似たような状況にあり、全世界的な課題である。

高齢化ということがよく合わせて問題になる。近年の保健および医療政策を見ていると、高齢化が進むために、高齢者の医療やケアを充実しようという単純化された政策対処が多いような気がする。「高齢」という病気はない。高齢化といっても、身体機能や精神的な機能の高齢化はずいぶん人によって異なる。

手元に1899年の日本の死因統計があるが、様相は現代と大きく異なる。感染症の問題が大きく、子どもや若年層、妊産婦の死亡が問題であり、現代のように生活習慣病やがんといった疾病でなくなっていくのとは大きく異なる。この時代からの「動的」な視点が必要である。

近年、子どもの発達にずいぶんと時間がかかるようになっている。人が経済的に自立することを社会的な発達の到達点とすると、50年、100年前に比べると、ずいぶん時間がかかるようになっているし、実際に心理学的発達にも時間がかかっているような気がする。

少々端折るが、こういった歴史的視野をおいて、現代の視点に戻り、表題の医療費の削減について考えてみたい。医療費の削減の方法には以下の二つの方向性があるように思える。ただ、「税収のうちどれだけを医療費に使うか」というのは「意思決定」の問題であって、価値観の課題であり、趣旨が異なる話なので別の機会に説明を試みたい。

1)医療費の効率化(同じ結果を生み出すためにかかるコストを減らす)
2)医療費の質向上(同じコストでより大きな効果を得る)

1)の視点に立つとき、まずは、効果を上げていない診療や政策をやめるあるいは減らす、というのが出発点である。無駄を減らすためにはどうすればよいのか。

難しいのは、「効果を上げていない診療や政策」は少なく、多くの場合、新しい医療技術はコストが大きくかかるが、効果も少し良くなるということが多く、生命予後や生活の質が向上する新しい技術の導入に、コストの話はどうしても後ろ向きの話になってしまい、ついつい新しい医療技術がどんどん上乗せされてしまい、しまいには効果が逆に下がっていても、どれが悪いのかもわからずいまさらやめれないということになっている。

私の専門の一つに「医療技術評価」というのがあり、医療技術の費用に対する効果を推測して示す、というものがある。

ある医療行為に関して、その効果を調べた研究を網羅的に収集し、その結果をまとめる。そのまとめを土台にして、日本の医療現場におけるコストと効果(通常は生活の質)を対比するための推測モデルと作成して示す、というのが一般的な手法になる。

私が英国滞在時代に勤務していたNICEという組織は、国としてこういう医療技術の評価を行ったり、より包括的な診療ガイドラインを作成する組織である。こういった組織は各刻で作られているが、日本には存在しない。

効果を上げていない診療や政策をやめるためには、その「効果」をある程度まで分野横断的に定量化して比較できる形にしなければ、不平等な結果になるし、意思決定は難しい。ただし、この「医療技術評価」という方法にも大きな限界がいくつかある。学術的な話になってしまうので、ここでは詳述しないが、英語がわかる方は以下の二つの論文を比較していただきたい。


両者とも日本におけるHPVワクチンの費用対効果について検証した研究である。新しいデータを用いたわけでは無く、これらの分析は以前された研究から情報を収集して行われた推測値である。前者は費用対効果に関してはずいぶん前がかりだが、後者はいくつかの条件がそろう必要があることが示されている。

同じ条件で一つの診療行為について同じ国を想定して費用対効果分析を行っても、検証する研究チームによって結果や解釈が異なってしまう。ちなみに前者はHPVワクチンを製造している会社の社員と著名な医療経済学者の先生が共同で行った研究で、後者は私も含めた独立した研究者のチームで行った。

検証そのものが複雑である一方で、このようにやり方によって結果や解釈が異なってしまうのであれば、検証方法についても検証しつつ、バランスの取れた意思決定を行うことが重要で、単純に分析結果に意思決定は任せてはおけないということがわかる。こう言った理由もあり、医療や健康政策は専門性が強いため、ある程度専門知識がなければ、意思決定が難しい。

こう考えると、「事業仕分け」のやり方の課題が見えてくる。事業を仕分けて無駄を減らすためには、ある程度の時間と上記のような研究手法を用いた検証のうえで、透明性の高い、専門性の高い会議体で意思決定をしていく必要があることがわかる。こういった仕組みの作りこみは、客観性や効果を発揮するためになかなか工夫を必要とする。

一方で、マクロの視点で2)を考えてみたい。ターゲットとしては生活習慣病を考えてみたい。

生活習慣に関連した病態は、現在の日本の政策方針は、「健診で早めに見つけて早めの治療」である。本当にこういう方針は費用対効果が高いといえるのだろうか。「健診」で異常値が見つかるころには、生活習慣の大半は決定づけられている。こう考えると、「生活習慣」がどのように確立されていくかを考える必要がある。二つのアプローチが必要であることがわかる。

A)   集団的アプローチ
B)   個人的アプローチ

生活習慣を集団として考えると、「健康的な食事」「適度な運動」「適度な睡眠」が得られやすい環境を社会としてどのように設計していくかということが重要である。

一般道路における自転車運転を問題視する論調が高いが、自転車通勤が増えている理由は、おそらく、「健康的な生活習慣」を希求する個人が増えている、という視点が重要である。ある組織では自転車通勤の通勤手当を、自家用車の通勤の2倍支給するようにしたところ、組織の構成員の健康度が増したという報告もある。

不健康な生活習慣を「懲らしめる」というアプローチではなく、健康的な生活習慣もって生活すると生活しやすい、という社会構造を設計する視点が重要である。

これが集団的なアプローチとなる。一方で個人的アプローチを考えると、生活習慣は妊娠出産子育ての時期が重要であることがわかる。生活習慣は、その親の生活習慣によって影響を受けるが、家庭が新しく確立していく妊娠出産子育て時期こそが、生活習慣病予防の本幹であり介入可能な黄金期であることがわかる。

実は、Developmental Origin of Health and Diseasesという概念がある。日本語にはまだなっていないが、かつては「胎児期起源仮説」とも呼ばれていた。胎児期や早期乳幼児期の栄養をはじめとする環境が、その子どもが成人になった際の生活習慣病発症に大きく栄養するという概念である。

第二次世界大戦末期の1944年のドイツ占領下で、食糧不足に拠る一時的な飢餓状態となり、この時期に妊娠した女性から生まれた子どもたちは、その前後に生まれた子どもたちよりも生活習慣病リスクが高った。最近ではさまざまな方法で研究が行われ、この概念が学術的に検証されている。

妊娠出産子育ての時期に、よい形で生活習慣を作っていくには、現行の制度でいくつかの壁がある。現行の妊産婦や小児の医療では、健常な人々への制度と、疾病を持つ人々の制度の間に大きな壁があり、前者は主に都道府県や市町村から提供され、後者は診療報酬によって提供されている。

この間にある壁が取り払われない限り健康な市民が育っていかない。

乳幼児健診をしている間に、皮膚炎などがあり、保湿剤で予防的にアレルギーの対処をしようにも、前者(乳幼児健診)は市町村事業あるいは自費診療、後者は診療報酬に拠る診療となるため、「混合診療」に抵触するため、保湿剤は処方できない。妊婦健診や出産も同じである。

後期高齢者医療費制度、あるいはその前身の老人保健法による制度のように、子どもの医療保険制度は切り出し、市町村や都道府県による制度、保健関連事業(ワクチンや健診)は、「妊産婦小児保健および医療費制度」といった形で一元的な財政制度としていく必要がある。


あまり長くなってもいかがかと思うので、このあたりの話は別のところで。

2015年10月1日木曜日

医薬品にかかわる意思決定

適切な意思決定をするためには、充分な情報を得ていることが前提になる。意思決定がうまくいかないとき、多くは、この「充分な」情報が得られていないことが多い。また、意図的にでも、無意識にでも、情報の提供の仕方を変えることで、この情報提供のバランスは容易に崩れていく。

医学界の、とくに医薬品に関する意思決定の構造的な問題点を問う著名な英語の本が、本年二冊翻訳されて、出版された。抗うつ薬と自殺の関係を言い出した精神科医が書いた「デイヴィッド・ヒーリー ファルマゲドン 背信の医薬 みすず書房」
と、私の仕事の一端であるコクランとも関連が深い医師で研究者が書いた「ベン・ゴールドエイカー 悪の製薬 製薬業界と新薬開発がわたしたちにしていること 青土社」
である。どちらも煽るようなタイトルになっているのはいかがかと思うが、医学界ではうすうす感じてきな大きな問題について提起している。

医薬品の問題点を指摘する論点においては、一般的には製薬企業がその攻撃の対象とされる。ただし、製薬企業は利益を追求する営利企業であり、不正をしない限りは、すなわち社会のルールに従う限り、それらの企業が糾弾されるべきものではなく、もし構造的な問題点があるとすると、それは、その問題点を生み出す社会構造や規制(あるいは規制がないこと)を問題にするべきだと思う。そういう意味では、この両者ともに、典型的で近視眼的な糾弾本ではなく、社会構造を明らかにして、その解決の糸口を探ろうとしているところに好感が持てる。

「ファルマゲドン」について、少し説明を試みる。マーケティングという手法が、医薬品の意思決定に関して現実的に大きな影響を及ぼす医師に絞って、発展してきたことを指摘している。さらに、医薬品を特許申請することに多くの先進国が抵抗を感じていた時代を過ぎて、医薬品産業が大きく先進国の経済成長に影響するようになり、ほんの少ししか違わない化合物を特許として認めるまでになることも示している。科学的根拠に基づく医療の枠組みの中で数値によるまやかし、ひいては日本でも問題になった臨床試験のデータの改竄も多くの国であった。また、効果の測定方法を工夫することで、結果の見え方も大きく異なる可能性も示している。臨床試験の結果を公表するときに、製薬企業がゴーストライターとして論文を書き、かかわった医師たちの名前で出版するというようなことも多くある。

「悪の製薬」では、意図的に臨床試験が行われたことや、陰性の結果だったものを表に出さないことで、結果的に情報をゆがめること、規制当局への圧力、臨床試験の分析方法や施工方法を様々に工夫することで、その医薬品の効果を大きく見せることが可能であり、そういった事例を紹介している。さらに、あの手この手のマーケティングの方法も同様に紹介している。ゴーストライターのことにも触れられている。

こう見てみると、両者の観察はかなり似ている。

ある研究の結果、陰性のデータは出版せずにお蔵入りになり、陽性のデータのみ出版するというのは、なにも臨床試験だけではなく、基礎的な研究でもよく見られることである。「出版しないこと」自身は不正ではない。ただ、良い結果のみ著名な雑誌に収載され、人々の目に留まるため、あたかも、新しい診療方法のほとんどがバラ色のように見えてしまう。

私はコクランという組織の日本支部を担当している。また、英国時代はNICEという組織の診療ガイドラインを作成していた。このコクランやNICEという組織のことが、この二つの本でともに紹介されている。

コクランでもNICEでも、関連する診療行為の効果について検証した臨床試験を網羅的に集めてきて、その質評価をして、統計学的にその結果をまとめる、ということで、その診療行為に関する科学的知見を凝縮させて意思決定に寄与しようとする文書を作成している。こういったプロセスのなかでできるだけ客観性を担保した方法で医療に関する情報提供をしようとしている。このプロセスの中で、注意深くみていくと自然に上記の「構造上の問題」が見えてくることがある。

繰り返すが、製薬企業を糾弾しても解決にはならない。これは医師や医療界、規制当局、医薬品医療機器企業、学術界全体にわたる構造上の問題である。さらに、おそらく、似たような構造が多くの分野においてみられると考えられる。


適切で有効な規制強化(あるいは緩和)、透明性の強化、市民や患者がより主体的にこのプロセスに参加することなど、ある程度は対処の方法はあるが、前回でも書いたが、最終的には、他人の意思決定に影響をおぼそうとする手段はかなり多岐にわたることを考えると、個人個人が、近視眼的な情報に惑わされないように本質を見ていく目を養うことも重要である。

2015年9月25日金曜日

政策の意思決定について


知れば知るほど、環境であれ、健康であれ、開発であれ、安全保障であれ、世界は問題が山積みで、自然と次の世代のことを考える。子どもや家族関連の社会保障が充実してほしいと願っている。そのために現在の私の立場として努力できることは数多くある。

ただ、その前に、日本の政府の債務超過が一向に減らない状況を見るにつけ、税金の使い道を考えることよりも先に、借金を減らすことの方が、まずは将来の世代のためになるのではないか、と思う。

なぜ、債務超過が一向に減らないのか。おそらく、エネルギーの問題、環境の問題、安全保障の問題、外交の問題など、医療や保健、社会保障に限らず、政策の意思決定という上流の問題が解決されない限り、先に進めないような気がしている。

子どもや家族関連社会保障費から、政策の意思決定への解決の糸口を考えてみたい。

家族関連の社会保障費(GNP比)に関していえば、日本は先進諸国の中では最低グループである。ただ、近年、その金額は増えてきている。下の図は1980年以降のOECD諸国の対GNP家族関連社会保障費で、OECD.statからデータを得た。国を色別グループに分けた。






北欧、西欧、南欧、東欧、豪州、東亜、米州、中東と分けてみた。トルコは便宜上中東に入れた。赤く太いところが日本である。地域ごとに特色がある。北欧はイメージ通り、最も支出額が大きい。西欧は幅があるが二つのグループがある。豪州は北欧に次いで支出額が大きい。その後東欧、南欧、米州、そして東亜となる。中東は判断がつかない。

もちろん、一時期、赤字国債や建設国債による、いわゆる箱モノを中心とした公共投資を積極的に行った日本政府は、現在債務超過が巨大となっているので、プライマリーバランス、すなわち財布全体のひっ迫具合も、こういった数字としては出てこないので、こういう環境の中で「微増」というのはかなり大きな力の可能性はあるし、こういった背景なしに国際比較は難しい。

現実に、日本は子育てに苦労する国である。社会保障費に限らず教育費も個人負担は大きい。子どもがすべて公立校で行けば平均的には一人当たり1000万円、私立校となれば2500万円かかるとされている。

制度の建前から言うと、義務教育年限は15歳までとされ、保育園であれ、小中学校であれ、母子・父子家庭であれ、生活保護であれ、「最低限」は担保されている。

制度の焦点を最低限とするのか、平均とするのかは、社会保障の哲学の問題ではある。こう考えると、自由主義的な社会保障の考え方を取る米国と上記の図で近い値を取ることは理解できる。

子どもが成熟して自立するまでかかる年数は、児童福祉法が制定された約70年前(昭和22年)とは大きく異なる。少なくとも経済的な自立は20歳前半というのが一般的である。短絡的に見ると、「今どきの子どもなかなか独立しない・・・」といった「昔はよかった」的な話であるが、実際、社会環境の変化によるものであり、彼らの責任ではない。成熟するのに得る必要があるものが増え、時間がかかっている。

また、教育制度が整備されて、じわじわと女性と男性の教育機会の差が縮まり、また女性の社会における地位も少しずつ改善して、仕事の機会も増えた。

こういった、家族をめぐる現状が大きく変化したにもかかわらず、制度は大昔のままであるがため、子育てに大きな壁・逆風を感じる構造になっている。

実際に海外で仕事をし、生活をしてきた経験から言うと、日本は、数字以上に子育てが困難な社会になっている。おそらくは、多くの国民の意識はこういった現状に近いにもかかわらず、制度は現状からは程遠いものになっている。

ただ、こういった、家族関連の社会保障を、限られた予算の中でどれくらい大切に考えるか、というのは、国としての意思決定である。国としての意思決定を、国民の総意によって行うのが民主主義であると理解している。

家族関連社会保障は、日本は2008年ごろまではさほど重視していなかったが、近年少しだけ増やしている、というのは日本の国民の総意だろうか。実は2011年前後の微増は当時の民主党政権の子ども手当などに拠るもので、現在は減少している。昨今の安全保障関連法案に関連して、民主主義のことがずいぶんと話し合われていて、いろいろ考えさせられた。すなわち、

1)現代の日本において、国としての意思決定は、国民の総意を反映しているか
2)その現代の日本における国としての意思決定は、適切なのか

という二点である。

私の印象は、「全く反映しないことはないが、ずいぶんともどかしいものを感じている」というところではないかと思っている。ちょうど、家族関連社会保障費が大変低いものの微増している、という立ち位置と似ている。「なんとなくもどかしいものを感じている」ということは、国民の総意が反映しにくい、ということになるが、それはどうしてだろうか。また、どうしたらよくなるのだろうか。

巷では、さまざまな専門家が意見を述べているように思う。それらを踏まえて、意思決定プロセスで考えてみたいと思う。

1.官僚(行政府)の問題:

霞が関であれ、地方自治体であれ、行政府、すなわち官僚・公務員は、制度の運用を行う存在である。このため、制度、すなわち政策の意思決定には建前上は関与しない。このため、官僚・公務員の雇用は選挙制度ではなく、実務能力によってきめられるという建付けになっている。

ただ、実際のところは、制度の運用以上の仕事をしている。現代の政策や制度は複雑化し、高度に専門化していることもあり、また事項で述べる、立法府における人材不足もあり、行政府の構成員である官僚が立法に大きく関与しているのが現実である。

また、日本の制度や法律は、いわゆる「グレーゾーン」が大きく取られているのが特徴であり、制度上精緻に詰めるのではなく、運用の裁量が大きい。

ちょうど、一般道の自動車の上限速度がかなり低く設定されているため、実際にはほとんどの人が「違反している」という状態を生み、このため、悪く言えば、警察としては「任意に捕まえたい人を捕まえることが可能」というのが現実である。

このように、実際の業務を逸脱して意思決定に関与することができることもあり、組織として、自分たちの組織に利益が誘導できるように工夫したり、ということも不可能ではない。全体としてみると、官僚や公務員を問題とする意見が強く、予算を削減されたりなどして、個々の官僚・公務員に大きな負担がいっている割には、実際には粘り強くまじめに日本の将来を考えて仕事をしている人の方がはるかに多いとは思う。

一方で、行政府においては、機密情報や重要情報が集められるが、こういった情報のうち、どのような情報を出すか、出さないか、というようなやり方で、意思決定に影響を及ぼすこともできる。実際に、町で商品が売られているときに、本来的にはほしいと思っていなくても、買ってしまうような、広告など情報の出し方の工夫の方法は広範囲にわたって存在しており、いかに制度で縛っても、人の意思決定に影響する方法はたくさんあるのは事実である。

上記のような状態があるからといって、「官僚が悪い」とするのは、あまりに短絡的である。逆に制度的に官僚に意思決定の裁量があるのは、制度の問題であり、個別の問題ではないからである。こういった状態を生むようになった背景として、A)政策の高度専門化と、B)立法府の人材不足、そしてC)情報の不均衡というような要素があるように思う。このA)B)C)は表裏一体である。官僚・公務員は意思決定に加わらない、という雰囲気を作り出していくには時間がかかる。

難しいのは、裁量権が減ることで、業務が「ツマラナイ」ものになりかねないことである。優秀な人材であるほど、裁量権があって活かされる部分がある。

民主主義や意思決定は、実際の制度設計上はゼロかイチかというところではなく、「程度」の問題なので、「裁量権」がなくなることはないが、公務員は意思決定に加わらないという建付けに現実を近づかなければ、制度上の矛盾が生じてしまうので、やはり、官僚・公務員の裁量権を減らすような方向で改善する必要はあると思う。

グレーゾーンはできるだけ減らすという努力は払うべきで、立法府の責任は大きい。

2.政治家(立法府)の問題:

官僚と同様、なにか政策上の問題があると、政治家の問題にする傾向があるように思う。

子どもに関連した政策に関していえば、国会議員などに陳情に行っても、お話はよく聞いてもらえるが、本音として、「子どもの政策は票にならない」ということがよく言われる。

英国で勤務していた時代、英国の国会議員に触れることがあったが、大きな違いは、組織であった。二大政党制が大きな伝統として根付いているため、選挙は人を選ぶのではなく、政党を選ぶ選挙となる。このため、その地にゆかりのない人が候補者として示されることが多い。

こういった政党組織が存在するため、国会議員の専門性が高まるということがあった。各政党は、社会保障や安全保障という枠組みではなく、「女性の健康問題の専門家」といったようなレベルでかなり細かく専門性が掘り下げられるため、立法能力も高く、それぞれの事柄に関して詳しい。逆に表にならないような案件に関しても、比較的安心して専門が掘り下げられることになる。ただ、逆を言えば、政治家が官僚的ではあるが。

個人というよりは組織としての政党政治が根付いていることにより、逆に言えば、政党の長がしょっちゅう変わるということもなくなる。

ただ、二大政党制であれば、政策が対照的で二者択一となるが、実際の政策は、高度な専門化と同時に、二者択一が問題ではなく、セーフティネットの作りこみをどのようにするか、など、するかしないか、ではなく、どのようにするか、ということが大きな問題なので、総意形成という意味では比例代表制度の方が適切であるという考え方もある。

また、政治家になっても、政党のような大きな組織の中で仕事をしていくには、組織の一員となることが要求されるため、すべての組織がそうであるように、「組織を守るため」あるいは、「伝統を守るため」の行動原理が身についていき、指導者となる時点ですでに、その行動原理に完全に染まっている必要がある。政治家であれ、サラリーマンであれ、日本人社会というコミュニティであるのは変わらない。

この行動原理には、後で述べる対米従属の問題や、利益団体との関係性も大きく関与してくる。

意思決定を行う人が、政策の細かいところまで立案するべきか、というと、実際には異なるタイプの業務となるため、むずかしい、前項では、官僚が携わることの問題を述べたが、一方で政治家が携わることも難しいということになる。

米国のようにシンクタンクが豊富にあればよいかもしれないが、人材が非常に限られる日本では望むことはできない。

現実は、官僚の力を借りつつ、在野の専門家の力も借りつつ、意思決定とともにこういったグループをまとめつつ実際の政策を策定する能力が、政治家には求められている。一言で「リーダーシップ」というような形で呼ばれたりするが、単に人物として魅力的であったり、狭い専門性の組織で指導者としてうまくいった経験があるということとは異なる能力のようにも思える。

そもそも、日本では、人口の高齢化とともに、高齢者の高い投票率、そして、あらゆる組織で年功序列的な性格があり、それが、利益団体にも官僚組織にも反映されることから、どうしても、「高齢者」が優遇される政策が策定される傾向がある。日本のすべての組織で指導層の構成が高齢者に偏重しない(若者ばかりでも問題だと思う)形に変わらないと変わらないのだろうか。

こういったような背景から、問題点として、政治家のA)一般的に意思決定者としての資質が低いこと、そして、B) 現実の政治家集団の価値観は、国民全体の価値観と異なることが問題である。A)B)は「ふさわしい人を選ぶことができているか」という点では共通の課題である。

政治家は、国民が直接選ぶことを考慮すると、とりもなおさず、選挙制度の問題であろうか。とはいえ、官僚のところで示したように、「情報の出し方」次第で、構造的に正当な意思決定ができないことがあり、これは、「権力」の座にある政治家と、ヒラの政治家との関係においても、有権者と政治家との関係においても同様である。

選挙の争点を経済問題として、それで当選した政治家集団で、安全保障問題での意思決定をするというのは、制度的に問題はないが、有権者から見ると、意思決定にねじれがあるということになる。

3.選挙制度の問題:

完全な選挙制度はない。

案件ごとに、選挙をするわけにはいかないため、前項で述べたように、ある課題が選挙の争点であったにもかかわらず、別の案件で意思決定が行われるというようなことがある。

また、政党交付金などの制度設計で、新しい政党が参入するハードルは高く、実際の選挙は、「組織票」で決まることが多い。

実際に、選挙においては、名前を連呼するだけのアピールであったりすることを考えても、メッセージがかなり単純化されるため、政治家の価値観と有権者の価値観があっているかどうかという判断をするには情報が少なすぎる。

政治家としての実務能力ではなく、表面的なアピールにより影響される。スーパーマーケットでお菓子を買うのと変わらない。パッケージに惑わされてしまう。

実際に政治家を選ぼうにも、「どの人も今一つ」というのが実際のところで、もしかすると、社会そのものの人材の流動性が高まらなければ、「政治家」候補のプールに質の高い人材が流れてこない可能性もある。

教育委員会や医療委員会というように、案件ごとに住民の直接選挙によって意思決定を行う専門家を選ぶ、という方法を取る国もある。教育委員会は日本でもかつては選挙で選ばれていたと聞いた。

上述したように、「組織票」によって選挙が決まるのであれば、そもそもの母体となっている組織の意思決定のあり方が問われることになる。二重三重の間接選挙ということになり、意思決定もそれらの組織を守るために機能していくため、思い切った意思決定はできない。

政治家であれ、有権者であれ、それぞれの自分の狭い周囲の関係性から、意思決定が生まれると、自然と、そういった意図が反映されるような制度設計が生まれ、これがいわゆる「ムラ」を構成することになる。

4.対米従属の問題と陰謀論:

先日外国人記者クラブで、「日本会議」の話が出た。与党野党を含めて、国会議員の中で日本会議のメンバーが多く含まれ、閣僚はその割合が非常に高いという話である。

また、経済的にも安全保障においても、日本における意思決定は、実際は米国の国務省をはじめとして、米国からの意思決定に従属する構造になっているという観察が、最近よく話し合われるようになった。米国の軍産共同体による影響はまことしやかに言われている。

米国国内、あるいは米国政府内でも、さまざまな政治闘争があり、日本のような弱小国では、こういった政治闘争の影響も有形無形に存在していると考えられる。

さらには、ロックフェラー家やロスチャイルド家、フリーメイソンといった、本当かどうか分からないところで、さまざまな意思決定がなされているという観察も、最近多く示されている。

こういった非常に強大な力を持った個人や組織が影響を及ぼそうとして、ある程度その力と工夫によって影響を及ぼすことができ、実際こういった状況を生んでいるのは事実であろうと考えられる。

上記に述べたように、情報の不均衡、示し方、さらに個々の権力構造(雇用関係など)、カリスマ次第で、他人の意思決定に影響を及ぼすことは可能であり、官僚であれ、政治家であれ、米国政府であれ、秘密組織であれ、個人であれ、組織であれ、程度の差こそあれ、影響を及ぼしており、逆に私たち個人、個人も意識せずに影響を受けているだろうと考えられる。

5.個人の問題:

このように考えていくと、ありきたりだが、個人の問題として考えざるを得なくなる。私たちの日常的な意思決定は、「本当に私たちがしたいこと」という意思決定によるのかどうか。他人に影響を受けていないか。自分の所属する組織の論理に影響を受けていないだろうか。

個人として、意思決定が独立して、前向きに選択して行われていること、そして、そのために必要充分な情報を持っていることが、おそらく意思決定が民主的になっていくために必要なことである。

個人の意思決定と、別の個人の意思決定がぶつかるときがある。あるいは組織の意思決定と個人の意思決定がぶつかるときがある。ぶつかることから逃げることも、影響を受けていることになるし、他人の意思決定を曲げようとすることで、影響を及ぼすことになることになり、そのどちらも本質的に民主主義の敵となる。

誰にも影響を及ぼさないと考えられることで独立した意思決定を確かめるのではなく、意思決定がぶつかるときに、どのように対処していくか、ということで、民主主義が問われると思う。

こういった共生的に、個人として独立していくことが、大きな柱のように思う。

さらに、バランスの取れた信頼性の高い情報をえることが、もう一つの大きな柱のように思う。

2015年4月10日金曜日


持続可能な社会の中での医療

 
少子高齢化ということがずいぶん叫ばれています。政府の債務超過もすでに周知の事実として私たちは認識しています。社会保障の中でも大きな割合を占める年金制度の運用も、国の信用、すなわち国債を背景にしたものから、よりリスクの高いものに変わろうとしています。

医療は社会構造の一端として、すでにグローバルの枠組みの中にあります。直接的に私たちの目に見える医療は地域で提供されているものですが、その構成要素を一つ一つとってみると、地球レベルでの経済活動に支えられていることがわかります。さらに踏み込んでいうと、途上国が途上国だからこそ、日本の医療が今のレベルで提供できるわけです。

途上国が発展(あるいは経済成長)すると、その格差を利用した現在の日本の経済的位置は相対的に低下するので、さらなる途上国を探すか、それもなくなると、途上国を途上国という位置づけのままにしておくような工夫でもしない限り、日本をはじめとする先進国の経済レベルは維持できないように思いますし、おそらく、こういった工夫にも限界があると考えられます。(人道的にも問題です。)

先進国がかつて経済成長したように、これから途上国が成長できるかというと、同時代に生きていることによる相互作用により、環境コストや高齢化など、成長にブレーキをかけるような要素が大きいうえに、成長の源泉であったさらなる途上国や成長領域がほかになくなってしまう、あるいは小さくなっていくことから、なかなか難しいということがわかります。

国内的には少子高齢化し、経済活動が活発な人口層が減り、社会保障の割合が増えていくという未来を感じ、一方で、もう少し俯瞰的に世界を見ると、先進国である日本が経済成長をどんどんつづけることができるようには感じられません。

一方で完全な定常的な社会を目指すのでしょうか。

おそらく「経済成長」だとか「定常的」という経済成長、その中身は価値を増やすことですが、成長する=古典的での価値を増やすことではなく、新しい価値観による「価値」を増やすことではないかという気がしています。
 
ただ、結果的には古典的な意味での価値の増加=経済成長はあまりなく、「定常化社会」や「循環型社会」と提唱されている雰囲気は、新しい価値の増加と近いものがあるようには思いますが、やっぱりどこか違うような気がします。ただ、限りある環境の中で、循環しつつ、というのは前提条件なのですが。

子どもの成長や発達は以前より時間がかかるようになりました。人の老化も以前より時間がかかるようになりました。移動の時間も以前よりずいぶんと短くなりました。情報入手の時間もうんと短くなりました。

まずは、こういったすでに昔に比べると大きく変わったことに基づく制度に変えることが必要な気がします。

ただ、昔に比べると変わったことの大きな点は、価値観でもあると思います。人々の消費が思ったより伸びないことを見ても、おそらく、「どのようなものやことを大事にするか」ということが、数十年前に比べると、日本国内でも世界でも、大きく変化しているように思います。

こういった変化に制度や考え方がついていけていないことが「持続可能性」という点から皆が不安になる大きな要因のように思います。

経済成長路線だ、定常化社会だ、というのではなく、社会が目指す方向性は、その社会の構成員の人々の価値観を反映するものであり、一つ一つの制度や政策すべてが、制度の考え方を変えるのではなく、その「現状」やすこし近い未来に適合できるような制度の調整が必要な気がします。

多くの非効率や無駄が、こういった価値観と制度のずれから生まれているように思います。それを一つ一つ地道に変えていくには、まずは無駄と考えられる既存の制度を取り除き、その際には、きっと「大事なこと」まで取り除かれてしまう可能性がありますので、注意してみながら、迅速にその抜けた穴のところに本当に必要な制度を当てはめていくことを繰り返すことで、気が付くと、新しい社会にあった制度ができているような気がします。

私たちがぼんやりと、○○だったら幸福だとかんじているようなことを、しっかりと言葉にして、新しい社会的価値観を確認することが大事に思っています。

持続可能な社会の中での医療は、こういった作業の中できっと見えてくるように思います。