ロンドン北郊の高級住宅地であるハムステッドの一角にRoyal Free Hospitalという病院がある。そのまま訳せば、王立無料病院である。実はこの「無料」という言葉に今の英国の医療制度の歴史がある。
この病院、1828年にロンドンの東部(昔は中心がこの辺りだったので、いまでもシティと言われている。)にある「ハットン・ガーデン」という地域に設立された。ハットンという名前はエリザベス1世の時代の大法官であったハットン卿から来ている。16世紀にはハットン卿の建てた邸宅など、きれいな地域だったらしいが、その後下り坂になり、病院ができる頃にはスラム街と化していたらしい。
蛇足であるが、筆者の勤める病院の兄弟病院である聖バーソロミュー病院がすぐそばにあるこの辺り、散歩してみるといろいろ発見がある。ディケンズの家からローマ時代の壁がある辺りまで、あまり観光客のいない路地裏めぐりは通のおすすめである。
さて閑話休題、もともとこの病院、ウィリアム・マーズデンという外科医が、この辺りで貧しさのために医療の受けられない女の子を見たことをきっかけに作り、数年後に名前を「ロンドン無料病院」とした。その後、ビクトリア女王がパトロンとなったために王立無料病院と名前を代えた。名前の通り、貧しくても無料で受診できる、ボランティア的病院であった。(英国の主要な病院は王室のメンバーがパトロンになるのは今も変わらない。)
1832年のコレラ大流行の時にはこの病院が唯一、患者を受け入れたらしい。これは疫学の父、ジョン・スノウがロンドンのソーホー地区を中心としたコレラの大流行からコレラの感染経路が水であることを発見した20年ほど前のことになる。また後に医学校が併設されてからのことであるが、はじめて女性の学生を受け入れた、といろいろ逸話の残る病院である。
とはいえ、病院の運営はすべてボランティアを基本にしていたので、患者はいつもあふれているが、いつも人不足、資金不足とすべてがうまく行っていたわけではない。その裏で、全体としてはお金を持っている人がよりいい医療が受けられるという状態があった。
第二次世界大戦を経て、1948年に英国の国立保健サービス(NHS: National Health Service)が発足した。地域に家庭医がおり、日常的な診療を行い、複雑な病気の場合には、家庭医の紹介によってはじめて病院を受診する、また医療は原則的に無料で提供されるなど、当時の制度も現在の医療制度と大きな骨組みは変わらない。
設立には英国の政治も大きく影響している。有名な保守党の故チャーチル元首相から戦争終了と時期を前後して、左派の労働党政権樹立となった。左派の政権が社会主義的な医療制度設立に大きく影響したことは容易に想像できることである。
その後、保守党政権、労働党政権と政権が変わりつつ、調整や改革が繰り返されながら、現在までに至っている。この後半の歴史で注目するべき点が二つある。
一つは1979年に政権が始まったサッチャー元首相(保守党)の医療制度改革である。医療の進歩とともに、医療にかかる予算が急激に国家予算を逼迫するようになっていた。このような状況を踏まえた大きな改革として、内部市場(internal market)の創生が挙げられる。
簡単に言ってしまえば、国の医療制度に属する組織を、医療という商品を提供する側(provider)とその商品を買う側(purchaser)に分け、とくに提供側の独立度を強めたわけである。もちろん完全な市場化ではないが、市場的な競争の要素を取り入れることで、組織の効率性を高める、という目的であったわけである。
この改革は、市場競争により「効率」という要素がNHSに加わったという一定の成果は見られた。ところが、一方で、これにより地域差、組織差が拡大し、医療や保健指標が悪化してしまったのである。すなわち、端的に言えば、NHS創設以前の、ある一部の人が得するような状況になり、当然これはその他の人の健康の悪化を意味する。
そこで二つ目の注目する点が1997年に政権が始まったブレア現首相(労働党)の医療制度改革である。ブレア首相は以上の状況を踏まえて、20年近い保守党優位の時代の後、鉄道改革と医療制度改革を二本の改革の柱にして、久しぶりの労働党政権を打ち立てたが、その政策の内容は従来の労働党の政策からは一線を画して現実的な内容になっている。
この改革の詳しい内容は追って説明していくが、原則的には市場経済的要素が医療制度に与えた功罪を踏まえて、「市場経済ではなく、システムとして医療の質と安全が改善するような機構を作る」ことで、改革を目指している。この改革の成果は最近じわじわと目に見える形になってきている。
どこかの国の状況にそっくりな部分がないだろうか。
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