混合診療について
拙著の「持続可能な医療を創る」で混合診療に代わる新しい診療報酬制度を提案していますが、その背景を示しています。
一般的に市場は需要に基づいてやり取りされ、そこで動くお金の大きさが、経済規模に反映されます。医療も一種の市場です。ただし、病気になった時やけがをしたときに最低限守られるべき部分というのは、個人個人の安全保障という概念からも、国単位で支えあうことが一般的で、このため、医療はそのほかの社会保障などと同じように、公的な、別の言い方をすると社会主義的な方法で守られています。
そこで微妙なのは、健康に生存していくために最低限守られるべき部分(ニーズと私は呼んでいます)と、需要はある(すなわちほしいと思う人々はいる)が、必ずしも最低限守られるべき部分かどうかは微妙である、というところに差があり、医療が進歩するにつれ、その差が大きくなってきていることがあります。
国単位、すなわち皆の税金で支える部分というのは、基本的にはこの「最低限の部分」であるというのはおそらくこのコンセプトを考えると、皆が納得するものなのですが、現実社会で目の前に医療のオプションがあると、目の色が変わるというのがヒトです。
これは一般的な製品市場を考えるとごく当たり前のことになります。現在毎日のように裏出されている商品ですが、どれだけの広告費や営業にそのコストがかけられているでしょうか。逆に言えば、私たちは、大して必要でもないもの、あるいはその商品が他の商品に比べたときの値段の違いだけの質を、生きていくために本当に必要としているでしょうか。
医療でも同じことが言えます。製薬企業であれ、医療機器産業であれ、医療にかかわる研究者であれ、次々と新しい診療方法を考え出します。中にはそれほどまでお金がかからないけど劇的な効果があるような新しい発見も存在します。
ところが実際は、大きなコストがかかる割には、確かにプラスの効果があるが、それが本当に国民の税金を投入してまで良いものかどうか、というものも存在しています。
日本は皆保険制度で、混合診療を認めていません。混合診療というのは、保険で許可された診療行為と、そうではない診療行為(私的診療)を同時に行うことです。実際に混合診療を許可しないことで、日本の私的診療の部分は他の国に比べるとはるかに少ないという現実があります。
そうすると、日本において、薬や医療機器を含めてある診療行為が認可され、皆保険制度の下に値段がつけられないと、実際にはその診療行為は広がらないこと、すなわち患者さんには届かないことになります。
一方で、先に述べたような、大きなコストがかかる割には、プラスの効果が少ないものに関しては、公的なお金を背負っている限り、認可したり保険制度の中で値段をつけることに躊躇が生じます。
とはいえ、最低限守られるべき部分を超えた需要の部分は、先に述べたように、経済活動としては重要です。米国では、もうすぐ国民総生産の約20%が医療費になろうとしています。すなわち、医療は国の大きな産業になっているために、成長してもらわないと、税収も増えないし、困るわけです。
そこで、混合診療解禁の話題になります。混合診療を解禁することで、上記のような大きなコストがかかる割にはプラスの効果が少ない診療行為を通常の診療行為を合わせて行うことで、さらに、その部分に新たな医療保険を創ることで、産業を活性化しようという考えです。それはそれでわかります。
ここに三つの問題点があります。
一つめは、日本社会全体が、どんどん右肩上がりに成長してきた時代から、限りある資源の中で、自分の分を知りながら生きがいを感じて生きていく、という成熟の社会に転換しつつあることを感じています。こういう時代が来ているのにもかかわらず、医療産業を巨大化してでも経済成長を伸ばしていく必要が「どれくらい」あるのか、という点です。
二つめは、上記に述べている、ニーズと需要は、白か黒かはっきりと分けられるものではなく、すべての診療行為で、ニーズ的要素がどれだけあり、受容的要素がどれだけあるか、というのは、案外連続的に変化しているものです。そこを白と黒とはっきりさせることは、政策と実情が一致しないため、かならず将来矛盾が生じます。
三つめは、混合診療が解禁するということは、私的診療を行う病院や診療所などがかなり増え、私的診療は皆保険制度の制度に組み入れられないため、公的な統制がかなりゆるんでしまうので、安全面に大きな危惧が生じますが、一度解禁してしまうと二度と取り戻すことができない状態になることです。私は豪州や英国の私的診療がそこそこ存在している国で、これらの私的診療の病院の中身を見てきました。心ある医療従事者から見ると、こういった私的診療は張りぼてでできた医療であることが多く、確かに、早くみてもらえたり、著名な医師に診てもらえたりするのですが、簡単な患者さんしかとらないようにするような工夫までして表面上の数値をよくするようなこともよくあり、また実際の近代医療の質はチーム全体の総合力であることを考えると、多少快適さが失われても、公的な医療の方が質も高く安全であることを経験上感じてきました。
こういった事情から、私は混合診療を解禁することなく、現在の診療報酬制度(日本の医療保険制度で診療行為の値段を決める仕組み)を上手に改編していくことを提唱しています。
現在の診療報酬制度では、自己負担金は年齢により固定されています。あと、診療行為ごとに調節できるのは、値段と、認可するかどうかだけになります。値段は当然かかったコストとともに、政策的な意思決定により調整されるのですが、この二つの軸だけでは、実は、ニーズと需要の関係は調整ができません。
そこで、診療行為や対象年齢ごとに、ざっくりとはなると思いますが、自己負担割合を変化させるという軸をもう一つ増やすことで、医療の本質から見た実情に合わせることができると思っています。
生存していくために本当に必要な医療行為まで、一般的な勤労者の年齢であれば30%負担する必要があります。これは本来的にはおかしい話で、本当に生存していくために基本的な部分は、年齢を問わず自己負担はゼロでよいかもしれません。
一方で、効いているのか効いていないのかわからないような薬や診療行為に関しては、患者や医療者の好みによりその採用は左右するでしょうし、また、新しく導入されたコストは高いけどその効果はあるものの小さい、といったような診療行為に関しては、自己負担を思い切って、大きくすることができるはずです。
こういう工夫をすることで、私的診療を外だしにしないことで、皆保険制度の中で安全面などの監視や介入の可能性を残しておき、一方で、ある程度経済活動に貢献するというバランスを調整する力を残しておけます。
市場の自律的バランスで調整できない医療制度においては、このように中央である程度バランスを取る手綱を残しておかなければ、危険な方向に行ったときに目も当てられないことになりかねませんし、経済成長への貢献度も、社会の成熟度に応じて、微調整がこれからは必要になってきます。
こうした、ニーズと需要の間を理解しつつ、社会保障の本質と経済成長の狭間で、国が成熟に向かうため、そして、ある程度長期間にわたって財政的にも耐えられる制度を創っていかなければ、目の前のことばかりに振り回されて、持続可能性は崩壊するように思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿