英国の医療制度、表と裏
英国の医療制度(NHS:National Health Service)は英国人の誇りである。戦後にはじまったこの制度は、「ゆりかごから墓場まで」を標語に、英国に住む人にはだれでも無料で医療サービスを提供する、社会主義的な制度である。医療の資本主義化が進んだアメリカの医療制度とよく対比される。この英国の医療制度を裏の部分を垣間見ていても、現在進んでいる医療制度改革を考えると、この社会主義的精神が医療を支えることそのものは根本的には間違っていないと感じる。
医療が病人(弱者)を救うという基本に立ち戻るなら、医療制度というものは社会主義的であるべきである一方で、制度や組織というものがさまざまな人の集まりから繰り出される「サービス」という要素がある限り、競争や人々のやる気を喚起するシステムも必要である。制度の哲学ということともに、システムが効率よく動いていくためにはどうするべきか、という裏と表両方の影響を考えながら議論されるべきである。
NHSという言葉を聞いたときの反応は人によってずいぶん違う。その社会主義精神を賞賛する医療制度学者も多いが、英国在住の日本人に聞くと概ね、憤慨や落胆した経験談が帰ってくる。
英国で受診する際は、開業医であれ、病院であれ、原則無料である。原則と書いたのは、たとえばメガネは払わないといけないし、処方代といって、薬を出してもらったら処方ごとに千円ぐらい払うことになる。また歯科の場合は治療費の一部負担である。それでも払う必要があるのはこんなところだから、「医療を無料で提供している」と言っても語弊はないと思う。
この財源の多くは国民の税金から賄われている。税金を払っていない英語学校で勉強する学生さん達もこの恩恵に預かることができる。その分、税金は高い。私などもロンドンの生活費は高い上に給料の三分の一以上、税金に持っていかれるので悲しい限りである。
国民みなが無料で医療を受けることができて、なおかつ英国の人口動態が日本ほどではないにしても高年齢化していることを考えれば、財源は膨大ではないか・・・と考える人もいるかもしれない。実は反対である。先進七カ国内の比較で、国内総生産比で英国の医療費はもっとも低い。(ちなみに日本は第二番目に低い)
無料で医療が受けられて、しかも国全体としての医療費が低く抑えられているでは、理想的ではないか。しかし、その現実は大きく違う。
開業医さんに診てもらおうと思っても予約が取れたのは5日後で受診時には症状がなくなっていたとか、慢性の病気で比較的大きな病院にかかっているが、半年ごとに担当医が代わって言うことも治療方針も代わるとか、夜に救急外来に受診したら、なんだかんだと診察してもらうのに翌朝まで待たされたとか、不満を挙げだしたらきりがない。ロンドンで救急外来に行くぐらいなら、ユーロトンネルを通って電車でパリに行ったほうがよっぽどはやく診てもらえる、という笑えない冗談もあるぐらいである。手術をしてもらうのに載る「待機リスト」も有名な話で、手術によっては受けるという決断をしてから年単位で待たないといけない、というようなものまである。
実際に働く医師の立場から行っても、あまりに多くの国から医師が輸入されており、受けてきた医師達の経験・技術レベルは大きく違い、治療方針を統一化しようとしても、きめの細かい治療は期待できない。看護師もコメディカルも同じである。
日本と比べると、医師の勤務体制は良いものの、逆に担当医師が代わりつづけ、それを監督する医師はあまり病棟や外来で見かけないという状態が、ひとりひとりの患者の治療にとっていい訳がない。現場としては悲惨な状態である。
では英国のこの医療制度も欠点だらけで参考にならないのだろうか。
英国では、医療制度改革が現在進行中である。社会主義的な制度に資本主義的な「競争」の要素を取り込んだ、サッチャー元首相の医療制度改革は思いのほか成果が上がらなかったが、現ブレア首相下の医療制度改革はこの社会主義的制度のよさを保ちながら、いかに「医療の質と安全」を向上させるか、ということ目指して、様々な工夫が凝らされている。単に社会主義対資本主義という対比とバランスの構造を超えて、医療の質、安全性と効率をシステムの中で改善するという実験は注目に値する。上記に挙げた問題点に関してはもうすでに対策が始まっており、成果も見えはじめている。
以上に挙げた問題点というのは日本でも大なり小なり見られる問題点であり、英国がこれらを解決していく様子は、日本にとって貴重な情報であることは間違いない。この連載の中で、この工夫の部分を様々な角度から紹介するつもりである。英国医療の裏と表を見ていただき、日本の医療をより良いものにしていく上でなにかの参考になることを願っている。期待いただきたい。
(既出・日経メディカルオンライン・禁無断転載)
1 件のコメント:
日経メディカルの連載を読ませていただいて、このウエブにたどりつきました。バランスのとれた英国の紹介は、大変貴重な情報だと思います。是非、他の日経メディカル掲載の原稿も、順にウエブ転載して下さい(日経メディカルはなかなか一般の方にとって読めないので)。
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